オリジナル小説をほそぼそと公開中。一部「#創作文芸:*.jp」に寄稿しています。現在休止中&内容改装中。
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雨が降ってきた。
最初はぽつ、ぽつ、
灰色のアスファルトに黒い染みが浮き上がって、変な匂いがし始める。
温かい排気ガスの匂い。
思わず眉が寄っちゃう。
鼻を覆うほどじゃないけど、気持ち悪い。
あたしはこの匂い嫌い。
徹夜明けとか生理の時とか嗅ぐとマジに頭くらくらして気持ち悪くなる。吐き気がするわけじゃないけど、胸がむかむかして落ちつかなくなる。
学校に行く途中で嗅いだらホント悲惨。
我慢ができないほどじゃないけど、あんまり長い時間は無理。
そういう曖昧な、ギリギリの境界線の匂い。
あたしは嫌い。
――ざああああぁぁぁぁぁ……
いつの間にか雨は本降りになって、アスファルトの灰色は全部消えた。変なの。さっきまで黒い染みだと思ってたのが今じゃ一面濃い灰色になっちゃったよ。
「あーめあーめふーれふーれかあさんがー……」
あれ、と思ったら目の前を男の子が走っていった。
ぴちゃぴちゃんってあたしのスカートに茶色い染みが飛んで、それと一緒に男の子が振り返った。黄色いフードの中でなまっちろい顔が不思議そうにあたしを見てる。
ほっぺたのふっくらした幸せそうな顔、子供特有の純粋そうな黒くてまん丸い目ん玉、どうにもまずそうだ。
あたしはちょっと口をへの字に曲げて、その男の子を見るのをやめた。
しばらくしてじゃーのめーでおーむかーえうーれしいなーって歌が続いて、男の子の長靴が水溜りをぴちゃぴちゃいわせる音が離れてった。
あれっ?
あたし何してたんだっけ?
頭の中で一瞬はてなマークが大量発生して踊ったけど、あたしはすぐに歩き出した。
ローファーが水溜りを蹴散らして、靴下に泥水が撥ねる。
いつもだったら気になるそれが、今日は平気。むしろ楽しくてしょうがない。
あたしは思いきり水溜りを撥ね上がるようにしてスキップしてみた。
サラリーマン風のごま塩頭のおじさんが撥ねた泥水に不愉快そうな顔をした。よれよれのスーツのお兄ちゃんが覇気のない顔で一瞬あたしを見て、すぐに目線を逸らしていく。厚化粧のおばさんが、半分消えかけた眉であたしを睨んだ。おっかない顔だけどなんだかピエロみたいで一瞬笑い出したい衝動にかられる。
おっと、いけないいけない。
両手を口元に当てて、「ふふ」ってちょっと変な笑い声を立てた。
雨音に掻き消されて誰にも聞こえてなかったのが救いかな。
――ふわっ
「あ」
声がもれた。
今何か匂った。
あたしは足を止めて周囲をきょろきょろ見回してみた。
どこも雨、雨、雨。
細い透明な線が濃い灰色のアスファルトに向かっていく世界はもやもやしてて曖昧で、あんまりあたし好みじゃない。
もう一度鼻でいっぱいに息を吸ってみる。
ふわっ
あ、やっぱりする。
いい香り。
甘い香り。
グレープフルーツにお砂糖たっぷりかけた時みたいに、甘くて瑞々しい香りがする。
なんて、
なんて、
おいしそうなんだろう。
そう思ったら止まらなかった。
あたしは急激にお腹が減った。
すごくお腹が減った。
喉も渇いて、思わず両手で喉を押さえた。
ひゅーひゅーって変な音がする。
おいしいそうな匂い、早く早く食べないと、お腹が減って、喉が渇いて、あたし死んじゃいそうだよ。なんで今まで平気だったのかホント不思議なくらいあたしお腹減ってる。
最後にご飯食べたのいつだか覚えてないもんなぁ。
無意識に、舌をぺろりと舐めた。
がさがさの唇。
リップクリームが欲しい。
口紅も。
真っ赤な血の色みたいのが。
ぺろり。
少し塩辛い雨の味。
喉が渇く。
早くおいしいものが飲みたい。
目の前を、女の人が通り過ぎた。
薄水色の傘をさした、萌黄色のコートの女の人。
「ねぇ」
あたしの声にその人が振り返った。
――ふわり、
香る匂いが甘さを含んであたしを誘惑してる。早く食べてって言ってる。
「あの、なにか?」
女の人は困ったような顔をしてる。
きっとあたしが傘もささずに雨の中立ってるからだろうね。
でもね、大丈夫なんだよ。
あたしは風邪なんて、病気なんてしないから。
濡れたって平気。
体が冷えたって平気。
でも、お腹が減ってるの。
喉が、すごく渇いてるの。
「ちょうだい」
あたしはにっこり笑った。
女の人が不審そうに目をすぼめる。
あたしはその人に思いきり抱きついた。
「ちょっ、ちょっと!」
女の人が慌てて体を離そうとあたしの腕の中でもがく。
同時に甘い香りがあたしの全身に回ってくる。
本当に、なんておいしそうな香り。
白い首に唇を寄せたら、あまりの甘さに頭の中がくらくらしてきた。
白い首筋に唇を寄せて、舌でその皮膚を舐めてみた。
腕の中の体がびくんって震えて、とろりとした甘さがあたしの中に広がる。
「いただきます」
お母さんが昔から言ってた。ご飯を食べる前には必ず言うセリフ。高校生になってもまだ守ってるあたしっておっかしい。
甘い甘い香りがする。
グレープフルーツの砂糖付けみたいに、甘さと酸っぱさと瑞々しさがたっぷりある、キレイなガラスの器にカッティングされたフルーツ。
あたしの大好きなデザート。
――くんっ
鼻に、何か嫌な匂いがついた。
思わず目の前のそれを突き放す。
なに、なに?
「そこまでよ」
甘い匂いが消えていた。
変わりに、あたしの嫌な匂いがする。
あったかい排気ガスの匂い。
気持ちの悪い匂い。
さっきまで甘かった香りのその人から、今度はひたすら気持ちの悪い匂いが漂ってくる。
「なにこれ?」
あたしは思わず叫んで、口の中から一生懸命さっき口に含んだ何かを吐き出した。喉が干からびるような熱さがして、指を押し込んで吐き出した。ぐへぇって気味の悪い音を立てて零れ落ちていくのは胃液。他には何もない。
「だましたな」
口をついて出た言葉に、あたし自身がびっくりした。
あたしの声じゃないみたいにその声がしゃがれてる。
なんでよ、どうして。
「逮捕します」
女の人が言った。
たいほ? あたしを? なんで?
「なんでよ、あたし食事してただけじゃない。なんにも悪いことなんてしてないじゃん!」
冗談じゃないよ。
ご飯食べようとしただけで逮捕されるなんて聞いたこともない。
「ちょっとだけ分けてもらおうと思っただけだよ、それがなんて逮捕なんて、冗談じゃないよ、あんたなに? サツなの?」
半分笑いながら、半分逃げ道を探しながら、あたしがそうまくしたててたら、女はいなくなってた。
「えっ」
拍子抜けして思わずまぬけな声がもれた次の瞬間、あたしはアスファルトと仲良く頬ずりしてた。
一拍おいて頬が痛くなって、あの嫌な匂いが鼻についた。
右手が痛い。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……」
頭の中がそれ一色で埋め尽くされた。あたしの右手を掴んだ物が一瞬躊躇したのがわかったけど、すぐにまた力を込めてきた。
「嫌だ、痛いのは嫌いだ。やめてよ。嫌だよ、離してよ」
なんだか変な声だった。
高くもならない低くもならない声であたしがしゃべってる。
「いいかげんにして彼女から出ていきなさい」
何? 出てく? 誰が?
「出ていかないなら……」
高い声が急激に低くなっていく。そのことに、あたしは恐怖を覚えた。
「ヤダ、怖いよ! 離してよ!」
体を左右に振って必死でその人から離れようとしたけど無駄だった。右手がしっかり固定されてて、動こうとすると痛い。痛いと思うとあたしは動けない……だって腕折れ、
――ぎりっ
嫌な音がして、あたしは痛みに気を失いそうになった。
なんで、やめて。
右手が勝手に動いてる。
「折れちゃうよ!」
もてる限りの声であたしは叫んだ。同時に右手が自由になった。あたしはびっくりするより先に逃げ出した。でも足腰がうまく立たなくて、格好悪くアスファルトを這いずった。足がアスファルトに削られて痛かったけど、右肩が外れちゃうよりいい。
「だれか、だれか助けて!」
叫んだ瞬間、鼻に甘い匂いと焦げた排気ガスの匂いが同時に香った。
その気持ちの悪さに胃がひっくり返る。
あたしは我慢できなくてその場で吐いた。
恥ずかしいとか考えられないほど気持ち悪かった。
ここがどこかとか全然頭になかった。
ただその気持ち悪さがどこかに消えてくれるなら何でも良かった。
早く、早く、消えて、助けて、苦しい、苦しい苦しい……
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「お名前、言えますか?」
「……あきこ」
「名字は?」
少し考える仕草をした後少女は答えた。
「中原、中原亜紀子」
「あなたの最後に残ってる記憶はいつのものですか?」
少女は不可解な、といった顔をして質問している女性を見つめた。緩いウェーブのかかった髪を肩で切り揃えた、美しい大人の女性の雰囲気をたたえた人。厚めの唇がなめまかしい赤い色を主張している。それを見ながら、少女はくんっと匂いを嗅いだ。
「匂い」
「どんな?」
「グレープフルーツにお砂糖かけた匂い」
「他には?」
少女は再び首を傾げ、それから口元を手で覆った。
しばらくそのままで、少女の目は何もない空間をただ睨んでいたが、不意に顔をあげるとぽつりと呟いた。
「苦しい」
「他には?」
「だれかたすけて」
「……」
「だれかたすけて、しにたい、くるしい、だれかたすけて、しにたい、くるしい、くるしい、くるしい……」
女の手が少女の目の前にかざされ、その赤い唇が厳かに告げた。
「ありがとうございました。もうけっこうです。あなたは人間であると判断されました」
少女は軽く小首を傾げた。
言われた言葉が理解できなかったらしい。
女はもう一度告げる。
「もう大丈夫です。あなたは邪気の影響下から完全に脱しています」
その言葉を最後に少女の視界は暗闇に閉ざされた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
雨が降っていた。
激しい雨。
こげ茶色の川の流れが逆巻いて、海へと溢れ出していく。
それを、あたしはじぃっと見つめていた。
見つめながら、でもあたしが考えてるのは別のことだった。
なんでこんなところに立ってるのかとか、どうして家に帰らないのかとか、そんなことが頭の中で、川の水みたいに溢れ返ってる。色は何色かな? 雨に濡れたアスファルトみたいな灰色かな?
――ぽつ、ぽつ……
気付いたら、雨足が弱くなってきて、いつの間にか止まった。
川の流れはそのままに、アスファルトの色もそのままに、雲の灰色と白もそのままに……視界だけがクリアになった。
自動車が音を立てて走りぬけていく。
風がうなって、あたしのずぶぬれの髪を少しだけ揺らした。
それから、あたしはふと濡れ鼠の自分が他人の目にどんな風に映るのか少しだけ考えて、それから、それから……
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